慈悲とは〈愛の先にあるもの1〉

2014/02/19のメルマガです。

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巫女 木内 恵美子

 

 

 

慈悲とは〈愛の先にあるもの1〉

神様と愛でもっと生きやすくなる

巫女  木内恵美子

慈悲、慈愛、慈善とは
《愛を前提に、自分が出来る全力の事を自身を犠牲にしても〈喜び〉とし見返りを求めず行う事》

・あくまでも〈愛〉を理解した上でベースにある事。
自分の自己満足を満たすために「誰かの為」や「あなたのため」は自己満足なので慈悲ではありません。

これは紙一重の難しさもありますが、
「相手が必要としているか」「相手にとって最善は何か」
その上で「自分が喜んで出来る事」が慈悲、慈愛になって来ます。

ここで自分が辛いけどや、我慢をしては「自己犠牲」になるので
自分への愛もなく、相手と〈対等〉では無いので神様方は良しとはしません。

あくまでも〈喜び〉の上で行う事が大切です。

ボランティアや動物保護、慈善団体の方が時折言うのが
「自分達が力になっているつもりだけど、こちらが癒されたりパワーをもらっている」と。

それはお互い〈愛〉があり、対等だからです。
愛の循環が行われているのです。

「やってあげてる」など上から目線では喜びや感動は生まれづらくなります。

それは対等ではないからです。

我が旦那様もとても慈悲深い方なのです。

私の親に結婚の挨拶に行った時に
「本当にもらってくれるんですか。後悔しませんか」と確認され、
感謝の土下座をされたほど。

それほど、自ら苦労を選んだと思われています。笑

私の親から見ると、旦那さんは「もっと楽な人も居たのに自ら苦労を選んだ。破天荒な娘を嫁にもらった、自己犠牲の慈善の方」なのです。

それは私も思います。

出会った頃私はバツ2の現役女王様。

知り合った場所はアンダーグラウンドの住人の方々が遊びに来る様な
「地下の中の地下」と呼ばれる場所。

*旦那様からの希望で補足をつけるならば旦那様は至ってノーマルな方なのでSMなどには一切興味はありません。

友人につき合わされ来ていただけなので。

しかし女性やら、100kgくらいの男性を縛って吊っている私を見て「格好いい」と思ったらしいのでどこまでをノーマルと言うのかは私も良く分かりません。

友人には私の事を話すと「騙されてるんじゃないの」と言われたそうです。笑

それでも会った頃には「結婚をするならばこういう人」と思っていたそうです。
自身の感覚に従ったのです。

結婚を考えた頃もアンダーグラウンドから足は洗いつつも
まだ仕事の関わりもあったり、その後は突如巫女。

様々旦那様には大きな犠牲と苦労はかけています。
一般的な男女、夫婦としては生きれませんので。

私が宇宙神様を宿す頃は突如トランス状態や
拒絶反応で寝込む事も多かったですが、冷静に対応してくれる様にまでなったり。

自身も100日の禊をしたり。
(白しか身につけられない事が一番辛かったらしいですが)

洗濯物も旦那様の方が畳むのが上手いという。
(私がTシャツを畳むとなぜか首の位置がズレマス)

しかし私と生きる事も「苦労とも思っていない」と言いますし
「来世も一緒になりたい。」と言ってくださるほど。

しかし「私は今世で人間終わりだし、その後は稲荷になって京都に行くから」というと
「じゃあ自分も人間を終わったら、迎えに行く」と。
旦那様も人間を終えたら稲荷に帰化するので。

しかし旦那様はあと2回人間があるので、
「来世辺り心変わりするかもよ」と言っても

「変わらない」と言い切ってます。
大神様にお願いする程なので。笑

旦那様には私を守るという神様が課した役割や使命があります。

お互いの前世で成就しなかった好きな想いがやっと成就したというのもありますが

魂の意識それだけではそこまで出来ない部分もあります。

「自らの意志」にならなければ。

数度私も離婚を伝えた事がありました。

一般的な夫婦の生活は出来ないし、神様と生きるという事は簡単ではありません。

「迷惑をかけているから、もっと楽な人と一緒になったほうがいい」と思ったのです。

それでも「そう言われる事が悲しい」と言われるので私ももう言わなくなりました。

そして日々感謝と、素直に気持ちを頂く事にしました。

愛をきちんと愛として受け取り、私も愛で返せる様にしました。

愛、慈悲を素直に受け取らない事は
愛をありのまま認めていない

受け取り側の自我なのです。

電車などでも席を譲ろうとしたら怒られたなどありますが、
それて悲しいですよね。

しかし「必要な方に譲る」姿勢は素晴らしい愛なので、これからもめげずに続けてほしいと思います。
しつこく譲る事は押しつけになるので良くありませんが。

必要無い時には「お気持ちは嬉しく、有難いけど自分には必要ありません。」ときちんと
愛もありのまま認めた上で丁寧に断る事。

これはどんな場合にも言えます。

必要ならば素直に頂く。

自分には必要無いと思うならばきちんと気持ちには感謝した上で断る。

しかし可能な限りは受け取る事も愛です。

旦那様も日々私や神様の為に生きてくれています。

守護の稲荷 ヴィラハムには好物のチョコボールをせがまれ

ヴィラハムの奥様のルラハの為に様々なスイーツを買ってきたり

自分も好きとはいえ大神様の為に滅多にないウィスキーを探し

休みには皆が好きなものを奉納したり、食べに行ったり

私が仕えている木星神 アマデウス様が平原綾香さんの守護神様で
しかも私がオペラ座の怪人が好きを知っているので

平原綾香さんがオペラ座の怪人の舞台に出ると知り、チケットを用意してくれたり
(アマデウス様にも劇場で見せたかったらしく)

自分の事より、私や神様の事が優先。

そしてそれが〈趣味〉であり、〈幸福〉だと。

慈悲・慈愛は
《行っている本人が幸福である事》

見返りや何もなくとも、自身の行動が幸福なのです。

旦那様は「神様を知った事で生きやすくなったし、歴史の話が聞けるから充分もらっている」といいますが、それを望む時は僅かと言えます。

見返りの為にしているのではなく
〈行為自体が喜び〉なのです。

誰かの為が自分の幸福になった時に初めて
《慈悲・慈愛》です。

それは時に人生をも捧げる事です。

自己犠牲だけならば、続かずそれは自分への愛もありません。

なので神様は自己犠牲を美徳とはしません。

自分を犠牲にしていれば
《預かった魂を傷つけている事》なので神様は悲しいからです。

慈悲・慈愛とは簡単では無いと思いますし

これも学びなのでその段階に来ていなければまだ学ぶ事は難しいかもしれません。

しかし、慈悲・慈愛とは以外と日常の中に溢れています。

職業ならば
例えば救助隊の方や海上や山のレスキューの方。
お給料で対価は頂いているとはいえ、命はお金に換えられません。

誰かのために自分の命をかけたり、
人生を通し、必要としている方の為に人生を捧げ全力を尽くす。

そして
家族やお子さんの為に自分の人生ではなく

妻、母親としてのとしての人生を選んだ方も
慈悲・慈愛に満ちているのです。

慈悲・慈愛はマザーテレサだけの特別なものではなく

《誰かの為に全力で生きる事が幸福》と感じた時に
もう産まれています。

慈悲、慈愛、慈善をしている方は<慈悲してるわ>とは気づきません。

自らの喜びや、したいからです。

それだけ特別な事ではなく、

溢れるものなのです。

それにはまず、自分を愛し

愛を知る事が大切なのです。

 

 

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